
探検家であり、有名な登山家でもあった故植村直己さんは言う。
「山を愛する者ならば心に残る登山をしなければいけない」と。
高い山だから、低い山だからと優劣をつけてはいけない、登り終えた後に深く心に残る登山が本物の登山だと思う、と。うなずける言葉である。英語も同じだと私は思う。
人間、心に残るものがない毎日を送るほどつまらないものはない。
心に残るものがないから反省がない。反省がないから進歩がない。
進歩のない人生などというものは、全くの無意味ではないだろうか。
たとえば現在の若者や会社員。勉強(仕事)、風呂、食事、テレビ、にかじりつく、あとは惰眠をむさぼるだけ。この繰り返しの日常生活で、はたして彼らの心になにが残るだろう。
英語にしても机の上だけが練習ではない。
文法を知らないから書けない。単語を知らないから話せない。発音が悪いから通じない。なぜか自分の英語が通じない。
だからこそ、そこでどうするのか。
口惜しい気持ちはわかるが、何度同じ勉強法を繰り返しても、それだけでは時間を使うだけで、本当の英語は身につかないのである。
自分の英語が通じた経験、自分の心に残った表現、そういったものを深く心に銘記して、勉強方法を練り、訓練する。この繰り返しが進歩につながるのだ。
要は自分が情熱をそそぐものに関して、毎日、何かひとつでもいいから心に残して、明日という日をむかえることだと思う。
今の若者にこれがないのは、現代社会がある意味裕福で、目を耳を楽しませる事物が多すぎるためかもしれない。
しかし、これらの誘惑がいかに孤独であろうと、どんなに困難が多かろうと、敢然として道を行くのが修業者のたくましき姿であるはずだ。
誰しも、日々の勉強を振り返ってみれば、何か心の端に引っかかっているものがあるはずだ。
「ああ、やっと今日も勉強が終わった」という安堵感とともに、この“何か”も流し去っていまいがちだが、それでは進歩がない。いつまでたっても上手くはなれない。
たとえ悪いことであっても、心に残ったものは大切にしたい。
それが多ければ多いほど、悩みは深く苦しみも大きいだろう。
しかし、悩みが深ければ深いほど、苦しみが大きければ大きいほど、完成への希望に胸は弾むものである。
道のりが長かろうと、短かかろうと、勉強が難しかろうと、何かしら痛烈に胸に残るものがある―せめて英語のマスターを志す若者には、そんな勉強をしてほしいと願う。それが真の人生ではないかと思うからである。
高い山に登るから一流の登山、丘のように低い山だから三流の登山との考えは間違っている。真のクライマーだった植村氏は、心に残る幾多の探検の末、昭和59年2月、アラスカはマッキンレー山中に消えた。
心に多くを残して逝った氏に、悔いはないと私は思う。